
計器概論の記事で少し触れましたが、飛行中は自分の感覚を信じてはいけない場面があります。今回はその理由を扱います。
空間識失調(Spatial Disorientation)とは、自分の姿勢や動きを、実際とは違う形で感じ取ってしまう状態のことです。技量不足によるものではなく、どんなに熟練したパイロットにも起こり得ます。
なぜ熟練していても起こるのか
根本原因は、人間の感覚器官が飛行という環境向けに作られていないことにあります。熟練したからといって錯覚自体が起きなくなるわけではありませんが、訓練によって、起きやすい状況を避けたり、感覚と計器の食い違いに気づいたりする力は高められます。仕組みはこの後の章で順番に見ていきます。
「感覚より計器を信じる」というのは、計器飛行を習うときによく言われることです。この記事では、なぜそう言えるのかを、感覚の仕組みから順に説明していきます。
空間識失調とは何か
空間識失調をもう少し正確に定義すると、
航空機と地球との相対的な姿勢・位置・動きを、正しく認識できない状態
のことです。
誤った姿勢を強く感じる場合もあれば、実際には旋回しているのに何も感じない場合もあります。「なんとなく変な感じがする」という漠然とした違和感だけの話ではありません。
ここでめまいとの違いに触れておきます。
めまいは回転感や浮遊感といった自覚症状そのものを指す言葉です。一方、空間識失調は、その自覚症状の有無にかかわらず、実際の姿勢と知覚している姿勢がずれている状態を指します。強いめまいを伴うこともありますが、めまいを感じないまま空間識失調に陥ることもあります。
もう一つ重要なのは、本人がその状態に気づいているとは限らないという点です。感覚がずれているとき、多くの場合、本人にとってはその誤った感覚の方が正しく感じられます。
姿勢を感じる3つのセンサーとその限界
姿勢を感じる手段は主に3つあります。視覚・前庭感覚・体性感覚です。それぞれの仕組みと限界を見ていきます。
視覚
姿勢を判断する情報源としては最も支配的です。地平線や地上の景色といった基準があれば、自分がどちらを向いているか、傾いているかをかなり正確に把握できます。
ただし、これは基準が見えている場合の話です。雲の中や夜間など、頼れる視覚情報が乏しい、あるいは誤った基準しかない状況では、視覚は逆にもっとも強い錯覚を生む原因にもなります。支配的だからこそ、狂ったときの影響も大きいということです。
前庭感覚
内耳にある器官で、三半規管と耳石器で構成されており、2種類の動きを検知します。三半規管は角加速度(回転の速さが変化すること)を、耳石器は重力と直線加速度を検知します。
三半規管には弱点があります。非常にゆるやかな旋回は角加速度が小さすぎて検出の閾値を下回り、旋回に入ったこと自体に気づかないことがあります。また、一定の旋回率がしばらく続くと、半規管内部の液体が管そのものと同じ速さで動くようになり、旋回しているという刺激が弱まっていきます。
旋回に入った瞬間はわかっても、それが一定のまま続くと、感覚の上では「まっすぐ飛んでいる」に戻ってしまうということです。
耳石器は重力と直線加速度を検知しますが、この2つを区別できません。体にかかっている力が重力によるものなのか、機体の加速によるものなのか、耳石器だけでは判断できないということです。この弱点は、後で見る人体加速錯覚に直結します。
体性感覚
皮膚・筋肉・腱・関節や、座席との接触から、身体の姿勢を推測する感覚です。ただし、地球に対する本当の「下」を直接検知しているわけではありません。
たとえば協調旋回(ラダーと補助翼が釣り合い、機体が横滑りせず調和の取れた綺麗な旋回をしている状態)では、重力と旋回による加速度が合わさった力で座席に押しつけられます。身体にはその合力の方向が「下」のように感じられるため、体性感覚だけでは、直線水平飛行をしているのか、旋回しているのかを正確に区別できません。

なぜ「感覚より計器」なのか
3つの感覚はどれも、地上での生活を前提に発達してきたものです。地上では、視覚・前庭感覚・体性感覚が示す方向はほぼ常に一致しています。だから普段は、感覚を疑う必要がありません。
飛行中は事情が違います。視覚情報が乏しくなったり、一定の旋回や緩やかな角加速度で前庭感覚が反応しなくなったり、体性感覚が重力と加速度の合力を「下」と誤認したりします。しかも、これらのずれは本人には気づきにくいものです。感覚は「今、正しく機能していない」というサインを出してくれないからです。
正常に作動している飛行計器は、身体感覚とは独立した基準から、機体の姿勢や動きを示します。感覚と計器が食い違ったときは、身体感覚に従うのではなく、複数の計器が示す情報を互いに照らし合わせ、整合する情報を基準に判断します。これが「感覚より計器を信じる」の意味です。
代表的な錯覚のパターン
ここまで、身体感覚だけでは飛行中の姿勢を正確に判断できない理由を見てきました。ここからは、その限界が具体的にどのような錯覚として現れるかを見ていきます。
前庭感覚による錯覚
傾斜錯覚(The Leans) 非常にゆるやかな旋回は角加速度が検出閾値を下回るため、旋回に入ったこと自体に気づかないことがあります。そのまま旋回を続けたあと、計器を見て翼を水平に戻すと、今度は逆方向に傾いたように感じます。この違和感を打ち消そうとして、元の旋回方向へ身体を傾けたり、機体を再び傾けてしまったりすることがあります。これが傾斜錯覚です。
死の螺旋降下(Graveyard Spiral) 一定方向への旋回を続けていると、前の章で見た通り前庭感覚が回転を感知しなくなり、旋回が止まったと感じます。この状態で高度が下がっていることに気づいても、旋回している感覚がないため、翼を水平に戻さないまま操縦桿を引いてしまうことがあります。すると降下を止めるどころか旋回そのものがきつくなり、旋回半径が縮みながら降下率も増していきます。

コリオリ錯覚(Coriolis Illusion) 旋回中に頭を別の方向へ動かすと、複数の半規管が同時に刺激され、実際には起きていない激しい回転を感じます。強いめまいを伴うことが多く、姿勢の立て直しが難しくなります。
人体加速錯覚(Somatogravic Illusion) 急加速すると、前の章で見た耳石器が重力と直線加速度を区別できないという弱点により、頭が後方へ傾いた場合と似た刺激を受けます。そのため、実際以上に機首が上がったように感じることがあります。離陸直後の加速時に起きやすく、この感覚を打ち消そうとして機首を下げると、危険な降下姿勢につながることがあります。反対に急減速すると機首が下がったように感じ、機首を上げすぎてしまうことがあります。
視覚による錯覚
疑似水平線(False Horizon) 夜間、傾いた雲の層や、海岸線・地上の光の並びを本物の地平線と誤認する錯覚です。実際の地平線が見えない状況で、誤った基準に合わせて機体を傾けてしまいます。
自動運動(Autokinesis) 暗闇の中で静止した一点の光を見つめ続けると、その光がひとりでに動いているように見えてくる錯覚です。夜間、他に視覚的な手がかりがない状況で地上灯や星を注視し続けると起こりやすく、動いていない光を追って機体を誤った方向へ操作してしまうことがあります。
起きやすい状況
これまで見てきた錯覚は、どんな状況でも同じように起こるわけではありません。空間識失調が起きやすい条件には共通点があります。

視覚環境
雲中飛行、夜間飛行、海上飛行、濃霧など、地平線や地上の目印といった視覚的な基準を失いやすい状況です。基準がなくなると、前の章で見た通り、視覚以外の感覚に頼らざるを得なくなります。
機体の運動
長時間続く一定の旋回、離陸やゴーアラウンドでの急加速、急な減速など、前庭感覚が感知しにくい、あるいは誤認しやすい動きです。前の章で扱った死の螺旋降下や人体加速錯覚は、こうした運動が引き金になります。
操縦者の状態
疲労、高いワークロード、計器監視の中断などです。これらは錯覚そのものを引き起こすわけではありませんが、感覚のずれに気づく余裕を奪います。ヒューマンファクターの記事で扱った内容とも重なる部分です。
これら3つの条件が重なるほど、リスクは高くなります。たとえば夜間の海上飛行で、なおかつ疲労がたまっている状況は、典型的な高リスクの組み合わせです。
まとめ
この記事で見てきた内容を振り返ります。
- 空間識失調とは、航空機と地球との相対的な姿勢・位置・動きを正しく認識できない状態のこと
- 原因は技量ではなく、視覚・前庭感覚・体性感覚がそれぞれ持つ限界にある
- 感覚は地上での生活を前提に発達したもので、飛行中の運動には対応しきれない場面がある
- 代表的な錯覚には、傾斜錯覚(The Leans)・死の螺旋降下(Graveyard Spiral)・コリオリ錯覚(Coriolis Illusion)・人体加速錯覚(Somatogravic Illusion)・疑似水平線(False Horizon)・自動運動(Autokinesis)などがある
- 雲中や夜間などの視覚環境、一定の旋回や急加速といった機体の運動、疲労やワークロードといった操縦者の状態が重なると、リスクは高くなる
正常に作動している複数の計器が示す情報は、身体感覚とは独立した基準に基づいています。感覚と計器が食い違ったときは、身体感覚ではなく、互いに整合する計器情報を基準に判断します。感覚より計器を信じることは、不自然な指示ではなく、この記事で見てきた理由に基づいた合理的な判断です。
表
空間識失調とは、どのような状態のことか
裏
航空機と地球との相対的な姿勢・位置・動きを、実際とは違う形で認識してしまう状態
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表
前庭感覚のうち、三半規管と耳石器はそれぞれ何を検知しているか
裏
三半規管は角加速度(回転の速さの変化)
耳石器は重力と直線加速度を検知する。
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表
人体加速錯覚(Somatogravic Illusion)はどの感覚器の弱点によって起こるか
裏
耳石器が重力と直線加速度を区別できないため。
急加速を機首上げと誤認してしまう
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